大判例

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大阪高等裁判所 昭和47年(う)363号 決定

本籍

韓国済州道済州市禾北里一八五六番地

住居

大阪市東成区玉津三丁目二-一六

会社役員

新田昌男こと

金秉彦

昭和九年一月二六日生

右の者に対する恐喝(認定暴力行為等処罰ニ関スル法律違反)出資の受入、預り金及び金利等の取締等に関する法律違反、所得税法違反被告事件につき昭和四六年二月二七日京都地方裁判所が言渡した有罪判決に対し被告人から控訴の申立があつたが、医師平野尚作成の死亡診断書によれば、右被告人は昭和四八年八月二一日午後三時三〇分芦屋市朝日ケ丘三九番地市立芦屋病院において死亡したことが明らかであるから刑事訴訟法四〇四条三三九条一項四号により次のとおり決定する。

主文

本件公訴を棄却する。

昭和四八年九月一一日

(裁判長裁判官 杉田亮造 裁判官 矢島好信 裁判官 児島武雄)

右は謄本である。

昭和四八年九月一三日

大阪高等裁判所第一刑事部

裁判所書記官 浜田隆輝

昭和四七年(う)第三六三号

控訴趣意書

被告人 新田昌男こと

金秉彦

右被告人に対する暴力行為等処罰ニ関スル法律違反、出資の受入、預り金及び金利等の取締に関する法律違反並び所得税法違反被告事件について、昭和四十六年二月二十七日京都地方裁判所が言渡した有罪の判決に対し被告人から控訴の申立をしたが、その控訴の趣旨を左のとおり陳述する。

昭和四七年六月一四日

右弁護人 前堀政幸

大阪高等裁判所第一刑事部 御中

第一点

原判決はその判示の「罪となるべき事実」の第一の(4)(5)及び(6)の事実について、判決に影響を及ぼすことの明かな事実の誤認及びその事実の誤認にもとづく法令適用の誤を犯しておるから、破棄せらるべきである。

一、原判決は、「被告人朴(朴基沢)は昭和三五年頃から大阪市生野区猪飼野中六丁目一七番地で、丸松製作所名下に鉄工業を経営していたもの、被告人金は、同三八年頃から同市天王寺区生玉前町九〇番地小出ビル四階金融業株式会社丸証の取締役社長をしていた」との事実を認定しており、この事実認定に誤はない。

二、また原判決は、「同市阿倍野区文ノ里三丁目二番地の一七号大和文治が、その経営にかかる椅子、テーブル等製造販売業に失敗して倒産したため、同人に対し、被告人朴および前記株式会社丸証においてそれぞれ数百万円の債権を有するに至つたので、被告人ら(註・ここでは被告人朴及び被告人金を指しておるものと理解する)はその返済方を督促してきた」との事実を認定しており、この事実認定にも、次に附言する事実を加えれば、誤はない。

何故なら、大和文治が被告人からの借入金を返済しなかつたのは、また朴基沢からの仕入商品の代金を支払わなかつたのは、大和文治が倒産以後のことに限らないのであり、何だかだと巧言を弄して、その支払能力を詐つて被告人からの借入金を増大させたり、朴からの仕入商品を増大させたりしておる事実に留意すべきであるからである。

三、したがつて、原判決が右事実認定につづけて、右返済の督促に対し、「右大和が容易にこれに応じないところから、業を煮やした被告人朴は姜達呈と共謀の上」原判示犯罪事実第一の(1)(2)(3)の各脅迫をした旨の事実を認定しておるのは、些か片手落であると認められるのである。

何故なら、証拠によれば、大和文治が右督促に応じなかつた態度なり事態は、ただ「容易にこれに応じない」と言うてすませられるようなものではなかつたことが明かであるからであり、また、朴が大和文治の債務不履行によつて自分の経営事業がつぶれそうになつている情況下で、売掛代金の支払を受けて何とか救われたいという心情は「業を煮やした」というようなものではなく、却つて憤まんを内心に秘めた哀訴嘆願という性格のものであつたとさえ認められるからである。

四、それ故、仕事に忙しい朴が、早く大和から支払を受けたいため、朴から言えば理屈の分つた話ができる人物であると思われていた姜達呈にたのんだ結果、原判決判示犯罪事実第一の(1)(2)(3)のような出来事が起つたのは――この事実は被告人金にとつては訴因外であるから、その事実認定の当否については論及しないけれども――その責は多分に大和文治の負うべきものであつた。

このことは証拠上否定できないのである。

被告人金としても、朴基沢が遠縁に当る関係上、同人に金員を貸していて、同人が大和文治の不誠実さに因つて困つているのを知つて同人に同情するとともに、自分自身も大和文治が貸金の返済をしないので、大和が不信な人物であることを十分知つていたのである。

五、しかし被告人の立場は朴の立場と異なり、大和文治に対する貸金については担保の提供を受けていたのであるから、債権取立てのために大和文治やその家族に対し哀訴する必要は何もなかつたのである。

(一) したがつて、被告人が朴や姜と共同して大和文治やその家族を脅迫することを事前に 謀議した事実はないのであり、これを証拠立てるものはないのである。

(二) しかるに原判決は「被告人金もまた前記株式会社丸証の債権を取り立てようとして被告人朴らの右行為に加担し、ここに被告人両名とも姜達呈とたがいに犯意を共通にし、さらに継続の意思で」被告人金が朴及び姜と共同して原判決判示の犯罪事実第一の(4)(5)(6)の各脅迫をしたとの事実を認定しておるのである。

(三) 加之、右判示には「被告人朴らの右行為に加担し」とあるから、「右行為」とは原判示犯罪事実第一の(1)(2)(3)の各事実を指すものと理解する外ない。

しかし被告人金は左様な行為には関係していなかつたのであり、また朴又は姜からも左様な行為について説明を受け、事後同様行為に出でる企のあることを明示または暗示されたこともなかつたから、「右行為に加担し」たとせられる理はないし、「右行為」と同様の企てに加担することを謀議したこともなかつた。またそのような事実を認める証拠もない。

(四) もとより被告人金は大和文治に会いさえすれば、それがいつ、どこであろうと、丸証の貸金の返済を要求しなければならない立場であつたから、これまでも遁辞を構えて返済交渉を避けて来ておる大和文治を見つけ次第、つかまえ次第、同人に対し貸金の返済方を要求する、それには同人に欺かれて逃げられないように警戒したり、また逃げた同人を探し当てるよう努力しなければならず、また大和の無責任な言動に対応しては時に同人をしてそのような態度を改めさせるに足る強い言動に出なければならないことも起りうるのである。

しかしこのようなことは、大和文治の出方如何にかかる相対的な関係であり、いわばその場の成り行きとして起ることであつて、予め計画してかかることがらではない。それは例えば、われわれの生活経験において「売り言葉に買い言葉」といわれるような相対関係であつて、近時の刑法理論では可罰的違法性の問題として論議せらるべきものを多分に含むものである。

(五) そうだとすれば、事の成り行きとして起つたその場その場の出来事についての共謀ということが問題となるだけである。ところが原判決では「犯意を共通にし、さらに継続の意思で」と認定しておるのであるから、「事前に予謀」が行われて共謀しておるとの事実を認定しておると理解するほかない。

ところが、そのような共謀の事実を認めるに足る証拠はない。

(六) よつてこの点で原判決が事実を誤認しておることは明かである。

六、それにしても、念のため原判決の判示認定事実の個々について検討してみる。

ここに原判決が被告人金につき認定した「罪となるべき事実」の第一の(4)、(5)、(6)を引用すると、

「(4) 同月二六日頃、前記株式会社丸証の事務室において、大和文治に対し「仮処分うつてあるやないか、野放しにしておいたら何をするかわからん、今日から連れて行け、逃がしたらいかん、若い者を二人ほど呼べ、見張りをつけて便所に行くのも何もかも一緒におれ、福田お前ついておれ」などと申し向け、

(5) 同日夜、同市住吉区大領町五丁目六八番地大和病院において大和文治の妻績子に対し『今日からうちがこの家を使うから出て行つてくれ、出んなら看板をはつて商売を一緒にやるか、看板を打つか』などと申し向け、

(6) 同月二八日頃、同市浪速区幸町通三丁目五番地北村一夫方において、大和文治に対し『嘘ばかり云つている、わしの会社自体がつぶれそうだ、わしとしては殺してやりたい気持だ』などと申し向け、」

とあるのである。

しかし証拠によつて右各判示事実の背景をなすその場面を併せ考えると、以下述べるとおりの事実が分明するのである。

(一) 原判示第一の(4)の事実について。

(1) 当日、大和文治が株式会社丸証の事務所を訪ねて来た。当時被告人金は大和に対して大広建設振出の二百万円の手形の割引で二〇〇万円を貸与し、それが不渡となつたため、大和に対しその返済を求めていたが、被告人が大和に対する債権取立を強行すると、大和の朴基沢に対する商品代金支払が不能となるので、朴に同情していた被告人は、朴のためにも支払を受けられるよう取計うために、朴を呼んで一緒に大和と交渉した。朴の従業員の福田某も同席した。しかし姜達呈が同席した証拠はない。

(2) その席での大和との交渉は埓が明かず、大和はいつものとおりの逃口上を用いて具体的な支払方法を約束しようとしなかつた末、弁護士の所へ行つてくるようなことを言つて一時その場を逃れようとした。

被告人や朴は、大和がいつもの例の逃げ口上を言つておるのだとは思つたが、大和の申出を拒むわけにはいかない――その時被告人らに暴力行為的な悪い意図があれば、大和を帰すわけはなかつた点に留意すべきである――から、朴は同席していた福田某をして大和の申出の真偽を見届けるために大和に同行さすと言つて、事実同人に命じて大和に同行させたのである。

(3) このような措置は、これまでに債権取立の話の際何度も大和に逃げられた経験をもつ朴としてのその場の知恵であつて、決して朴だけが一方的に悪い仕打をしたというものではない。

(4) 事実大和は、そのような逃げ口上を用いて丸証事務所を出た後、附いて行つた福田某を巧にまいて所在をくらましてしまつたのである。

(5) 之をもつてしても、まさに大和文治に対しては、原判示の如き言辞をもつてその逃げ足を抑制する必要があつたことが分るのであり、被告人や朴が仮に原判示の如き言辞を用いたとしても、大和文治にとつては恐怖どころか何の痛痒も感じないものであつたことを実証しておるのである。

即ち、原判示の如き言辞は、大和文治にとつて脅迫に値しないことが明かである。

(6) いわんや、原判示の如き言辞が果して用いられたかどうか、証拠上甚だ疑わしいのである。

(イ) 先ず第一に、「仮処分云々」という言葉が出る前提となる仮処分とは何のことか分らないのである。また「今日から連れて行け」と言つてみたところで、何処へ何しに連れて行くのか意味が分らない。「若い者を二人ほど呼べ」と言うたとしたら、現実に呼ぶ様子もなかつたのであるから、これは無意味なことばである。

かように見てくると、大和にとつても何の意味か分らないこれらの言辞が、脅迫のために用いられたという大和文治の証言こそがうそなのであることが分る。現に被告人も朴もそのような言辞を用いた事実を否定しておるのであり、被告人に言わすれば、自分と大和とどちらがうそつきかと問いたいのである。

(ロ) 他方、原判決は原判示の言辞を用いた者が誰であつたかを判示していないが、朴基沢は福田に命じて大和に同行させたことを自認しておるのであり、この程度の言動があつたことは事の次第としてありえることであつたと思われるのである。

(ハ) ところが、被告人金も、朴も、姜達呈自身も、姜がその席に居合せた事実を否定しておるのであるから、被告人が姜と共謀したとの原判決の事実認定は腑に落ちないのである。

(二) 原判 第一の(5)の事実について。

この出来事は、前述の原判示第一の(4)の出来事についで起つた同じ日の出来事である。

(1) 話の途中から大和文治にうまく逃げられた被告人や朴は、大和を探しに行く当てもなく、殊に被告人は大和の帰宅先としては同人の妻績子が診療に当つておる病院であり、被告人が大和文治に対する貸金の担保として代物弁済の予約をしておる建物である原判示大和病院に赴いて、大和文治に出会うか又は大和文治が現われるのを待つほかないこととなつたのである。

(2) 朴と福田某とは一足先に大和病院へ出向いた。被告人は弟を連れておくれて出向いた。それがその日の午後五時か六時頃だつた。しかし大和文治は帰つて来ていなかつたので大和の妻である医師大和績子の同意を得て同女が診療を終るのを待つて大和に代つて話を聞いてもらうことにした。被告人は同女に名刺を渡し、被告人らはその許諾を得て同家二階の部屋で待つたのである。

(3) 大和文治はなかなか現われなかつたが、績子は午後九時に診療を終つたので、被告人が主となつて貸金取立ての話をした。

被告人にしてみれば、大和との間にその病院建物につき貸金の代物弁済の予約並びに自己を貸借人とする賃借権設定契約をしておるので、大和が貸金を返済しないから、その建物によつて代物弁済を受けるか、さもなければ賃借権によつてこの建物に住み込む権利があると理解していたから、同女に対し金員貸借、代物弁済予約を証する契約書を示してその権利を主張して説明し、二階を第三者に間貸ししておる事実を非難したりしたのである。原判示の如き言辞は、その間に被告人が大和が利息を払うか返金しないかぎり自己の権利の内容を実行する意思のあることを明示するため必要である言葉であつたのである。しかしその建物の所有者であり、これを夫の大和文治のために担保提供していた績子にしてみれば、事情がよく分らないところがあつたのか、それとも逃げ口上なのかは分らないが、被告人の言い分をよく理解して適切な応待をなさず、被告人が権利を主張することばを徒らに不当不法なものと誤解して、警察官を呼ぶ措置に出たのである。

従つて、その間被告人と(大和文治とは異なり事情や法律に通じない)績子との間で言い争うこともあつたが、それは事の性質上止むを得ないことであつたと言うべきである。

(4) しかしその間に被告人が大和績子に向けて吐いた原判示の各言葉はすべて、被告人が不在の大和文治に代つて聞いてもらいたいと思つておる同人の妻大和績子に対し、大和文治が貸金の返済をしないで逃げ廻つておるのを責め、返済がなされないのなら、代物弁済を予約されている大和病院の建物を引取るか、貸借権を行使してその建物に住み込むほかないことを告げて、被告人がこの度こそは貸金の取立について強い態度に出ようとしておることを理解させようとすることばであつたことは明かである。このことはその時大和績子に呼ばれてやつて来た警察官には十分理解できたのである。

(イ) ところが、大和績子は債務者である大和文治、担保提供者である自分がおかれている法律的な地位を十分に理解していないが故に、被告人の発言を抑圧するために警察官を呼んだのである。

(ロ) しかし一一〇番の電話で績子に呼ばれてやつて来た警察官はさすが警官であつて、双方から事情を聴いて見れば、被告人の言分――それは原判示の被告人のことばを含めて――に相当な理由があり、それを績子が尊着いて聴けばよかつたのだということが分つたので、その場はそれで納つたのである。

この事実こそは、被告人の判示言辞が、客観的にも相当な理由のある発言であること、すくなくともその場の成り行き上止むを得ない発言であつたことを実証しておると言えるのである。

(5) それ故、警官のパトカーも帰つた後、午後十時頃になつて被告人らが期待したとおり、大和文治が大和病院に帰つて来て被告人らとの話を受け継ぎ、債務の弁済については北村一夫に一任してある旨を告げ、同人との話合を求めたので被告人らは北村一夫なる人物とは之までかかわりはなかつたが、大和の申出を信用してこれを諒承した。大和はその間にも北村一夫に電話をかけたりしていたが、被告人らは北村と面談することを約して同家を辞去したのである。

(6) なお附言すると、姜達呈はこの場には同席した事実がないのである。このことは姜自身がそれを否定しており、被告人も朴も同様姜の同席を否定しておるのである。

(三) 原判示第一の(6)の事実について。

この出来事は、前述の原判示第一の(5)の出来事の中で予定されていた場面での出来事である。

(1) 北村一夫方で顔をそろえた関係者は、北村の外には大和文治、被告人金、朴基沢、福田某であつた。

姜達呈はここにも顔を出したことはない。

(2) 北村一夫方では、別に論議が沸立つたことはなかつた。それは論議が沸く理由がなかつたからである。もともと、北村も大和文治の債権者らしかつたが、大和文治の援助者らしく振舞い、大和と被告人らとの間のとりなしをなし、大広建設振出の二〇〇万円の約束手形の取立が可能であることを教え、よつてその支払を受けたときは、その内一〇〇万円を大和から朴への買掛金の一部の支払に充て残り一〇〇万円を被告人への弁済の一部に充てて朴の急場を救うとともに、大和文治への債権取立をも緩和して大和の立直りを待つことの話合がまとまつたのである。

(3) かくて朴基沢は右約束手形金の内から一〇〇万円にても売掛金支払を受け得たならば、事業資金不足の急場を切り抜けることができると思うと、未だ現実には一円の金にもなつていないに拘らず、それまでの大和に対する督促の苦労が思い出されて、恨み言の一つも言いたい気持――それはやれやれという安堵の気持の中に位置を占めている――になつて、それが原判示の如き大和文治に対する恨み言のことばとなつて述懐されたのである。

(4) しかし原判決判示のごとき言辞が、そもそもそのことば通りその場の空気に適合していたといえるのだろうか。

けだし、その場面は、初めから北村一夫の仲裁人的な立場でのとりなしを期待して関係者が話合のために寄り集つていたのであり、現に北村を主役として話はまとまつて行つたのであるから、被告人にしても朴にしても、大和文治を脅迫しなければならないような事態は生じていないのである。

(イ) しかしそれまでの過去をふりかえると、大和文治は現にそれまでにはうそばかり言つて買掛代金を支払わず、朴基沢を困らせて来たのであり、その結果朴の事業がつぶれそうになつていたのである。

したがつて、話合が成立した後の朴が、原判示の如き言葉を大和文治に向けたのは事実を事実として述懐したのであるとすれば、その場の空気からしてまことにもつとものことであつたと言える。そしてそのようなことを言つたからと言つて、それが脅迫のことばに通じるわけはない。

(ロ) また大和文治の不払によつて、そのように苦しんで来ていた朴が、その間に大和の不誠実を恨んで心情的に同人を殺してやりたいという気持――決意ではない――になつたこともあつたであろうし、それもまことにもつともなことであつたと言える。

それ故、話合が成立した後の朴が、安心感からそれまでの心労を顧みて、大和に対して、同人を殺してやりたいという気持だつたと言うたとしても無理のない話である。これを咎め立てする方がむしろ野暮くさくて人間の心情に通じないと言えるのである。

(5) もともと朴基沢としては、自分がその場で述べたことばが、原判示の如きことばどおりであつたかどうかを能く覚えていないが、「殺してやりたい気持だつた」という趣旨のことばで自分の心情を述懐したことを認めておるのであり、それは正に「さもありなん」と思われるところである。と言つても、その場の空気からしてそのことばが述懐のことばにすぎないことは客観的に分りきつていたのである。

このことはその席の主役である北村一夫が朴のいかなることばをも咎め立てしていない事実によつて実証されておるのである。

(四) 叙上のとおり、原判示犯罪事実第一の(4)ないし(6)に判示されておる各言辞は、その言辞が用いられたその場の出来事とその成り行きを背景とし、それらの言辞の向けられた対手方である大和文治や大和績子の言動との相対関係において観察せられ、評価せられなければならないものである。

(1) 何故なら、凡そことばなるものには、本質的にあいまいさがあり、ふくらみがあるのであつて、或ることばが述べられた時には一つの意味にかぎられて述べられるのであるが、その背後には同時に、どのようにも変質する意味がひそんでおるのであり、それ故対話者がその時おかれていた状況に即してその時用いられたことばの意味を探り、知らなければならないのである。このことは、例えば日常生活において反語が用いられる場合のことを考えてみるとよく分るのである。その場合に反語が用いられておるかどうかを理解するには、聴手の能力が関係してくるのである。それ故、ことばを各目(形式)どおり理解するだけでは事足りないのである。

だからこそ、古くソクラテスも「すべての名が正しいのではない」と説いたのである。われわれは名(ことば)を知ることによつてのみ事物(真相)を知るという方法が危険をはらんでおることを知らなければならない。そして自らこのような危険を知る者は、裁判官、検察官、弁護人のいずれであれ、厳に自分のことばだけで事物を知ろうとしてはならないのであり、どこまでもそのことばが用いられた時、そのことばの主がおかれていた背後、背景、成り行きを明かにした上で、それに即してことば(名目、発音、文字)の意味する事実(真相)を知らなければならないのである。

(2) そこで原判示犯罪事実第一の(4)ないし(6)の各言辞を、かかる観点から評価するならば、既述のとおり、それらの言葉の内、或るものは遁辞を構えて債権者を避けて逃げ廻つてきた大和文治のずるさをありのままに指摘してその逃げ廻る精神を矯めようとするものであつたし、或るものは法理と事理にくらくて責任を辯えていない大和績子に理解を促し責任を感ぜさせようとするものであつたし、或るものは大和文治の不誠実に困り果てていたものの一時の述懐にすぎないものであつたことが分るのである。

(3) しかるに原判決は、原判示犯罪事実第一の(4)ないし(6)に摘示の各ことばが大和文治又は大和績子に対しその生命、身体、財産等を加える意味が賦与されたことばであると認定しておるのである。

かくの如きは、それらのことばが用いられた時の背景、成り行きを無視し、脅迫を意味することになりそうなことばだけを捨象したものであり、それらのことばがその時用いられた真の意味を理解したものとは到底言えず、この意味において原判決が事実を誤認しておることは明かである。

(五) また仮に原判決に右(四)に述べた意味での事実の誤認がないとしても、原判決が脅迫の言辞なりとしておる各判示言辞は既述のとおりそれらのことばが向けられた大和文治又は大和績子のその時、その場での、被告人又は朴基沢に対する言動との相対関係においてこれを観察すると、いわゆる「売り言葉に買い言葉」の関係にあり、また「相手の出方次第」に対応した関係にあるのであつて、彼此決して均衝を失してはいないのである。

そこでこのような場合には、被告人又は朴が口にした原判示各言辞は、之を社会的に評価すれば敢て刑罰をもつて対処するに値しないのであつて、いわゆる可罰的違法性を欠如することが明かであるといわねばならないのである。それ故、いわゆる可罰的違法性の欠如を超法規的違法阻却事由と解するか或いはまた構成要件非該当と解するかに論議は残るとしても、被告人及び朴の原判示各脅迫的言辞を用いた行為が暴力行為等処罰ニ関スル法律第一条に該当するとした原判決は、法令の適用を誤つておるのである。

七、ところで、原判決は叙上のとおり事実を誤認しておるのであり、仮にそうでないにしても、叙上の如く法令の適用を誤つておるのであるが、それらの誤は、いずれにしても、被告人金の犯罪の成否、存否の岐れるところにかかわりをもつのであるから、判決に影響を及ぼすことが明かである。

仍て原判決は破棄せらるべきである。

第二点

原判決は、その判示犯罪事実第五の被告人の所為につき、法令の適用を誤まり、その誤りが判決に影響を及ぼすことが明かであるから、破棄せらるべきである。

即ち、原判決はその判示する「罪となるべき事実」の第五において「被告人金は、手形割引、商品の先物取引、有価証券売買等の業務による所得につき、その所得税を免れようと企て、昭和四一年度分の所得金額は四三、四三七、九九七円、これに対する所得税額は二三、八二七、七〇〇円であるにもかかわらず、割引した約束手形を銀行の仮名預金口座で取立て、かつ、商品の先物取引および有価証券売買を、仮名を用いて行ない、自己の取引でないように仮装する等の不正行為により、右所得を秘匿したうえ、右所得税申告期限である同四二年三月一五日までに所得税確定申告書をその住居地所轄の税務署長に提出しないで、同四一年度分の所得税二三、八二七、七〇〇円を免れ」たとの事実を認定し、この事実が所得税法第二三八条第一項に該当する旨を判示しておるのである。

(一) しかし右判示自体において明かなとおり、被告人は昭和四一年度分の所得金額が四千三百四十三万七千九百九十七円、これに対する所得税は二千三百八十二万七千七百円であるのに右所得税申告期限である昭和四二年三月一五日までに所得税確定申告書をその住居地所轄の税務署長に提出しなかつたのであるから、この事実は所得税法第二百四十一条(所得税法第二十条第一項第三号の規定による確定所得金額並に確定所得税額の申告書を提出しなかつた罪――以下では単に「確定所得金額等不申告罪」という)に該当するのであつて、所得税法二三八条第一項に該当するわけがないのである。

(二) 思うに所得税法第二四一条に該当する確定所得金額等不申告の罪を成す「不申告」という不作為の行為は、これによつて所得税を免れる結果を生来し又は生来する危険を内蔵しておるけれども、その不作為の行為は所得税法第二三八条第一項に謂う「偽りその他の行為」に該るとは言えないのである。

このことは、所得税法がその罰則として第二三八条第一項と同法第二四一条とを区別しておることによつて、おのずから明かである。即ち、

(1) 被告人が、原判決が判示するところの「割引した約束手形を銀行の仮名預金口座で取立て、かつ、商品の先物取引および有価証券売買を仮名を用いて行ない」などした事実は証拠上争いないけれども、それだからと言つて、被告人はそれらの取引を「自己の取引でない」ように仮装したのではない。被告人が「銀行の仮名預金口座での取立」、「仮名での商品の先物取引」等をしたときでも、その銀行にとつては、その仮名口座が被告人本人の口座であること、商品等の先物取引の取引員にとつてはその仮名が被告人本人であることが明かになつておるのであり、それは決して原判決に言う如く「不正行為」ではない。何故なら、このような取引方法は天下公知のことであり、法律的にはいわゆる「通謀虚偽表示」であるけれども、このような「通謀虚偽表示」の当事者が第三者、例えば税務署長に対してこれを「真正な事実」として主張しない限り非難に値する「不正」であるとは言えず、いわんや「偽り」とは言えないからである。

(2) そしてまた被告人がそのような方法でした取引によつて所得を得た所得金額が幾何であろうとも、これをもつて直ちに所得を秘匿したとは言えないのである。何故なら、そのようにした所得はその取引の相手方又は関係者には秘匿せられていないからである。

(三) かくして原判示の如き方法で、被告人が特定の所得年度内に幾何の所得を得ておろうとも、その所得金額並に之に対する所得税額の確定申告書を所轄税務署長に提出しない限り、そこには「不申告」という所得税法第二四一条該当の不作為行為が存在するだけであつて、対第三者関係である所轄税務署長との関係においては、未だ「偽り」その他如何なる意味の「不正の行為」も存在せず、したがつて「偽りその他不正の行為」により所得税を免れる具体的事実(所得税法第二三八条第一項の行為)は存在していないのである。

(四) かくして原判決が判示事実につき所得税法第二三八条第一項を適用したのは、法令の適用を誤つておるのである。

そして所得税法第二三八条第一項の罪は、同法第二四一条の罪よりも重い刑を定めておるのであるから、右法令適用の誤が判決に影響を及ぼすことは明白である。

(五) なお、所得税法第二四一条該当の「不申告の罪」に対する法定刑が所得税法第二三八条第一項該当の「所得税 脱の罪」の法定刑よりも軽いことに着目して、被告人の所為を「不申告の罪」に止めることの当否を論ずる向もあろうかと思われるので附言する。

(1) 確定申告を行うに当つて、「偽りその他不正の行為」を役立て、それとの因果関係の下に所得金額を詐り、因て所得税を免れる行為と単純に確定申告を行わないだけで所得税を免れる行為の何れの刑罰を重くするか、それとも双方共に同罪とするかは、要するに立法政策の問題である。

(2) しかし既に制定されておる所得税法第二三八条第一項と同法第二四一条との解釈は、罪刑法定主義に則つて厳正に行われなければならないのである。

(3) 前述の所得税法が罪と定めておる二種の行為は、所得を得る方法とか所得を秘匿すること自体に関する行為ではなく、いわば所得税を免れるおそれのある納税手続に関する行為であることは明白であるが、これに一律の法定刑を定めていないのには、やはりそれだけの立法的意味があるのであろう。

第三点

原判決は、その判示犯罪事実第五の被告人の所為につき、所得金額の認定を誤つており、その誤が判決に影響を及ぼすことが明かであるから、破棄せらるべきである。

(一) 原判決が認定しておる被告人の昭和四一年度の所得金額は、四千三百四十三万七千九百九十七円である。

(二) しかし、原審において被告人に対する本件所得税法違反被告事件と併合して審理せられた被告人及び原審相被告人朴基沢に対する恐喝被告事件の審理によつて、被告人の大和文治に対する貸金三百十万円か少なくとも二百万円並びに朴基沢に対する貸金数百万円が昭和四一年中に回収不能即ち損失となつてしまつておる事実は裁判上顕著な事実であるに拘らず、原判決はこの損失金額を不問に附したまま原判示所得金額並に所得税額を認定しておるのである。

(三) かくの如きは、審理不尽に因り事実の認定を誤つておるものである。何故なら、苟くも裁判所が所得税法違反被告事件において所得金額を認定するからには、単に税務官吏の調査結果を証拠とするだけでなく、裁判所に顕われた全証拠によつて所得金額を認定すべきであり、それには税務官吏の調査結果以外の証拠によつて明かとなり、又は明かとなることの明白な損失金を認定すべきものであるのに、原審裁判所はこの審理を尽していないからである。

(四) そして原判決認定の所得金額四千三百四十三万円余に対し損失金二百万円ないし六、七百万円を控除して所得金額を更正するときは、所得税額も減額し、所得税法違反の犯罪の情状にも亦相当の影響を及ぼし、延いては刑の量定に影響を及ぼすことが明かである。

(五) 然らば、右審理不尽による事実誤認が判決に影響を及ぼすことは明かである。

以上

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